セミナーの報告2

第一回ライプニッツ・セミナー 特定質問者 町田一(慶應義塾大学)の質問内容および所感
フォヴェルグ・クレール氏「ライプニッツとディドロの哲学における象徴的知識」について
      特定質問者 町田一(慶應義塾大学)
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フォヴェルグ・クレール氏は、ディドロによるライプニッツの『認識、真理、観念についての省察』(1684、以下『省察』)のフランス語訳(正確にはBruckerのラテン語原典抜粋をディドロがフランス語訳したもの)を『百科全書』の中に新たに見出した気鋭の哲学者である。フォヴェルグ氏の今回の発表はディドロとライプニッツの象徴的認識(つまり、定義可能な記号による認識、たとえば「金」とはかくかくしかじかである、という試金判定士がもつ認識)の接点を見出す探求であり、ディドロの認識論との連続性を肯定的に捉える発表であった。
しかし、ディドロの認識論との連続性をいうためには、そもそも感覚的認識が象徴的認識である、という前提を明らかにせねばならない。ライプニッツは果たしてこのような前提を持っていたのか。あるいは、このような前提を見出しうるテキスト的根拠が『省察』にあるのか。
具体的に言えば、『省察』においてライプニッツは、認識の段階的分類をおこなっており、まず、不分明な認識と明晰な認識を区別し、次いで、明晰な認識について、混雑した(フォヴェルグ氏は錯雑したと訳している)認識と判明な認識を区別する。ライプニッツによれば、「色、匂い、味」などの感覚的対象についての認識、すなわち、感覚的認識は混雑した認識となる。判明な認識とは「名目的定義」が与えられうる認識である。判明な認識は、さらに、十全な認識(定義不要な原始的観念にまで達する認識)と不十全な認識に区別される。加えて、判明な認識は、盲目的あるいは象徴的認識(事物の代わりに記号を用いる認識)と直感的認識(認識対象のすべての構成要素を把握する認識)にもまた区別される。
以上のライプニッツ認識論によれば、感覚的認識は判明な認識には当たらない。したがって、感覚的認識は、象徴的認識にも当たらない。象徴的認識は個々の感覚対象にかかわる認識ではないからである。われわれの疑問の要点はここにある。
これに対して、フォヴェルグ氏は、感覚的認識は複合観念(すべての感覚的観念は複合的である)を認識対象とし、象徴的認識もまた「千角形」のような複合観念を認識対象としている。したがって、感覚的認識と象徴的認識には接点がある、と返答された。さらに、感覚的認識は「青色」と「黄色」を識別するdiscernoことが出来るという意味において、しかし、感覚的認識は段階的連続的に判明にいたりうる認識と考えられるので、感覚的認識と象徴的認識にはやはり接点がある、とも返答された。
しかし、ライプニッツはそもそも複合観念の分析について、感覚的対象にかかわる混雑した認識と事物の代わりに記号を用いる象徴的認識を区別する必要を述べているのである。つまり、認識対象が複合観念であるということには、感覚的認識と象徴的認識を一致させる根拠はない。また、認識の二分法的分類よりも、むしろ認識の連続的段階性を見出そうとするフォヴェルグ士の指摘は新鮮であるが、いかんせん、テキスト的根拠を欠いていると言わざるを得ない。
以上が特定質問であり、また、フォヴェルグ氏の応答であった。
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