セミナーの報告2

ライプニッツ・セミナー(第二回)、質問者(田子山和歌子)の報告 ライプニッツセミナー第二回は、ホッブズ研究者である川添美央子氏(政治哲学)に、「物体論」De Corporeを中心に、ホッブズの真理論に関し、発表いただきました。ホッブズの1655年の著作『物体論』は、ライプニッツが彼固有の記号理論を構築の際、影響を受けたことで知られています。『物体論』は、ライプニッツを学ぶわれわれにとっても、興味ぶかい著作といえます。川添氏の発表は、ホッブズ『物体論』第3章「命題について」の分析を中心におこなわれました。『物体論』第3章では、ホッブズ独自の真理観が展開されており、特に第三章7節は、ライプニッツも、先に述べたような記号理論において、つねに批判的な形で言及している箇所でもあります。そして、川添氏の発表はまさにこの第3章7節の、ホッブズの真理観の解釈を中心としたものでした。川添氏の趣旨は、第3章7節にみられるホッブズの真理観の従来的解釈を修正する点にあります。では、ホッブズの真理観とはどのようなものでなのでしょうか。
 ホッブズの真理観とはどのようなものか。川添氏は、ホッブズ「物体論」、第3章7節中に見出される「真理は事物resのうちにあるのでなく、ことばdictumのうちにある」という言に注目します。ホッブズは、事物resとことばdictumを区別し、ホッブズは、真理はことばのうちにあると考えます。ここでホッブズの考えるところの真理とは、命題の真理を意味しています。彼にとって命題とは、主語と述語という二つの名が繋辞によって結び付けられたものを指します。命題の真理は、主語と述語が繋辞により結び付けられるかどうかによって決定されるとホッブズは考えています。つまり、彼にとって、命題の真理は、主語と述語ということばの結合に存するのです。「真理は、事物ではなく、ことばのうちにある」というホッブズの言は、以上のような文脈から出てきたものといえます。
 「真理は、事物ではなく、ことばのうちにある」というホッブズの言は、しかし、彼の超唯名論的態度を顕著に表すものだと従来考えられていました。それは、「真理は、事物のうちにはなく、ことばのうちにある」とは、真理がことばに依拠していることを意味すると解釈されるからです。ことばは、文化的、制度的産物です。そして、ことばが文化的、制度的であるとは、結局は、ことばは人間が作った恣意的産物であるということにほかなりません。そうすると、もし、真理がことばに依拠するとするならば、結果的に、真理とは、人間の恣意的産物にほかならぬことばによって決定されることになってしまいます。真理がことばのうちにあるとは、結果的に、真理は人間の恣意のうちにあることを意味することになるのです。このように、真理が人間の恣意のうちにあるとするならば、真理は、「事物のうちにない」ことになります。なぜなら、人間の恣意は事物に即していないと考えられるからです。
 以上のように、ホッブズの「真理は、事物のうちにはなくことばのうちにある」という言は、真理を、事物に即さぬ人間恣意の産物だとする真理理解を示していると解釈可能です。事実、ライプニッツはこのようなホッブズ理解をおこなっています。真理までも、ことば、すなわち、名辞に依拠するとみなす、極端なまでの唯名論的傾向を、ライプニッツは「超唯名論的傾向」と呼びました。唯名論とは、一般に、普遍を、個と同じレベルでの事物と考えず、普遍を単なる名(名辞)と考える傾向を指します。このように、普遍を、事物にあるのではなく、名辞にのみあるとする傾向が、唯名論といわれます。ライプニッツの理解では、しかし、ホッブズは、普遍だけでなく、真理までをも、単に名辞であると考えており、この点でホッブズは唯名論をさらに徹底化しているとライプニッツは考えています。ライプニッツがホッブズに超唯名論主義者という呼称を帰すのはこのためです。
 さて、ホッブズに帰されるこうした超唯名論的傾向は、ホッブズを正当に理解したといえるでしょうか。川添氏のポイントはこの点にあります。川添氏は、「真理は、事物のうちにあるのではなく、ことばのうちにある」の「事物」resに特に注目します。川添氏は、ホッブズのこの言を、真理が事物と無関係であることを示したものとは考えません。それは、ホッブズの真理概念には、事物が前提されていると川添氏が考えるからです。
ホッブズの真理概念に事物が前提されていることを示すために、川添氏は、偶有性Accidentiaの概念に注目します。ホッブズにおいて、Accidentiaは、「事物そのものではなく、またその部分でもないが、しかしながら、事物に付き従い、(延長を除外して)消滅も破壊も可能であるが分かたれることはありえない」と規定されます。ホッブズにとって、偶有性は、「事物そのもの」ではありません。また、「事物の部分」でもありません。しかし、偶有性は、事物そのものではないとしても、偶有性は、事物の側にあるものと理解されます。偶有性は、生成消滅するとしても、「事物に付き従う」かぎりで、事物の側にあるといえるのです。
 ではこうした偶有性は、ことば、さらには、真理と、どのような関係にあるのでしょうか。まず、偶有性とことばの関係について、ホッブズは、偶有性を、名、とりわけ、抽象名の原因causaとなっていると考えます。彼は言います。「これら名の原因causaは、我々の概念の原因causa conceptuumと同一である。この名の原因は、概念化された事物の状態affectio、あるいは、活動actio,あるいは可能性potentia、あるいは、ある人が言うように、事物の「様態modi」とも言われるが、しかし多くの場合、「偶有性Accidentiaと呼ばれる」。このようにホッブズは、事物の側にある偶有性が、ことば、および、概念の原因であると考えています。
 偶有性は、ことば、および、概念の原因である、というホッブズの主張から、川添氏は、真理は、事物と無関係ではなく、causaとしての連関を持っていると論じます。なぜなら、ホッブズの主張どおり、真理がことばのうちにあるとしても、真理を決定付けることばは、偶有性を、原因としているからです。こうした偶有性は、事物に付き従う、という意味で、事物の側にあります。ここから、真理は、事物とcausaとしての連関を有していることになると川添氏は考えるのです。したがって、真理が事物のうちにはなく、ことばのうちにあるというホッブズの真理観は、真理が事物と無関係であることを意味してはいない、と川添氏は考えるのです。真理は事物のうちにはなく、ことばのうちにある、というホッブズの真理観は、真理が事物と無関係であるとする、従来のホッブズ理解を示したものではない、というのが、川添氏の結論です。

(質問者の所感)
上記のような川添氏のホッブズ解釈にたいし、質問者の疑問は以下の通りです。
1)事物が真理と因果的に無関係ではない、という理解は、「真理は、事物のうちにはなく、ことばのうちにある」というホッブズの真理理解とどう結びつくのか。
 偶有性は、名、とりわけ、抽象名の原因causaであるとするホッブズの主張から、川添氏は、偶有性は、真理の原因causaでもあるという結論を導き出しています。しかし、この主張は、「真理は事物のうちにはなく、ことばのうちにある」という彼の真理観とどう関係するのでしょうか。
 質問者は、「真理はことばのうちにある」というホッブズの主張の、「のうちにある」は、真理はことばを「原因とする」という意味ではないと考えます。
 すなわち、川添氏が考えたように、事物とことば、ことばと真理の間にcausa連鎖を認め、その上で、真理は「事物のうちにある」とする理解は、結局は、「真理は事物のうちにではなく、ことばのうちにある」と主張するホッブズの真意を捉え切れていない、と思われるのです。ではどうして、真理は事物を原因causaとすることが、真理は「事物のうちにある」とということの意味だとする川添氏の解釈が、ホッブズの真意を捉え切れていないのか。それは、事物の真理性をホッブズがどう考えているか、という点が、川添氏の解釈では明らかではないからです。
 このことを見る前に、ホッブズは、必ずしも、真理と事物が無関係である、と考えたわけではない、ということに注意を向けるべきであると思われます。ホッブズは、確かに、事物の真理性を認めます。それは、事物もまた「真なる事物」といわれうるからです。真なる事物がある、という意味では、真理は事物のうちにもあることになるのです。さて、それにもかかわらず、なぜ、ホッブズは、真理は事物のうちにあるのではなく言葉のうちにあると考えたのか。それは、ホッブズの次の付言から明らかです。彼は言います。「真なる事物は、しかし、命題の真理に還元されるべきである」と。すなわち、真理は事物のうちにあると認めても、しかしなお、その事物の真理性は、結局、「ことばのうちにある」ということになるのです。したがって、真理は、最終的に、事物のうちにあるのではなく、真理は、ことばのうちにあるのだ、というのが、ホッブズの論です。
 さて、以上のようなホッブズの論の方向性は、川添氏の主張とはまったく異なると思われます。なぜなら、ホッブズが、事物の真理は、ことばの真理に還元される、だから、真理はことばのうちにある、と考えたのに対し、川添氏は、真理がことばのうちにある、そして、ことばは事物のうちにある、だから、結果的に、真理は、事物のうちにある、と考えているからです。まとめると、真理→ことば→事物のcausa連鎖は、ホッブズの主張のうちにはありません。ホッブズが主張しているのは、事物の真理→ことばの真理という、一種の還元的連関だからです。したがって、川添氏の解釈は、ホッブズ真理論理解としては、ミスリーディングだということになります。
 ホッブズは、事物の真理がことばの真理に還元されると考えます。では、事物の真理が、ことばの真理に還元される、とはどういうことでしょうか。このことは、第3章7節を実際に読むことで明らかになると思われます。ホッブズは「真理は、事物のうちではなく、ことばのうちにある」という言に続けて、「実際、たとえ、真なる事物がある場合に、見かけや作り事に対立したとしても、真なる事物は、しかし、命題の真理に還元されるべきである。それゆえ、実際、人間が鏡の中に映っていたときその像ないし影が、本物の人間であることは否定されるが、それは、「影は人間である」という命題が真ではないからである。事実、「影は本物の陰ではない」と否定されえないのであるから。」と述べています。ホッブズは、真なる事物が有る場合も、やはり、真なる事物は命題の真理に還元されるべきだ、と述べています。真なる事物がある場合とは、事物に真理がある場合と言い換えることが出来ましょう。すなわち彼は、事物のうちに真理が有る場合を想定したときも、やはり、事物の真理の根拠は、命題のうちにあると彼は考えるのです。そしてこの命題こそ、ことばにほかなりません。なぜなら、命題とは主語と述語というふたつのことばの結合だからです。事物に真理があると想定しても、事物の真理は、結局、ことばのうちにあると考えるのです。
 では、事物に真理があると想定しても、なお、事物の真理は、結局、ことばのうちにあるといえるのでしょうか。このためには、ここでホッブズの言う「真なる事物」とは、いわゆる「ほんもの」を意味することを知る必要があります。このことは、真なる事物が「作り事」や「見掛け」と対置されていることから明らかです(川添氏は、真なる事物が、「ほんもの」を意味することを十分に吟味せずに、事物の真について言及しているように見えました)。
では、真なる事物=ほんものと考えたとき、なぜ、事物がほんものであることの根拠が、ことばにあると考えられるのでしょうか。このことをホッブズは、鏡の中に映った人間の影と、本物の人間との対比により説明します。「ほんものの人間」が、真なる事物、すなわち、ほんものを指すことは言うまでもありません。鏡の中に人間が映っているとき、その影は、「ほんものの人間ではない」と否定されます。ではなぜ、鏡に映った人間の影が、ほんものではないのか。それは、ホッブズによれば、結局、「影は人間である」という命題が真ではないからです。影がほんものでないことは、命題が真ではないことによっているとホッブズは考えるのです。このことをさらに一般化すれば、事物がほんものかどうかは、命題の真偽によって決定されることになります。事物の真理性は、命題の真理性に還元されるのです。これが、「真理は事物のうちにはなく、ことばのうちにある」ということの意味であるといえます。
 以上のように、真理は事物のうちにはなく、ことばのうちにある、というこのホッブズの言は、結局、真理は命題によって決定されるということを意味しています。ホッブズは、命題の主語と述語の内包関係から真理は決定されると考えています(第3章3節)。このような命題における主語と述語の関係のうちに真理があることが、事物もつ真理(ほんもの、という意味での)をも決定するとホッブズは考えています。命題における主語と述語の包摂関係により真理は成立する。これが、真理がことばのうちにあるということの意味なのです。
 さて、ここで注目したいのは、こうした主語と述語の包摂関係は、どこにおいて成立するか、ということです。すでに見たように、主語と述語の包摂関係により成立する真理は、事物の真理をも決定付けるものです。したがって、主語と述語の包摂関係は、事物においては成立しえません。では、主語と述語の包摂関係は、事物においてではなかったら、どこで成立するのか。ホッブズの答えは、ある意味で、興味深いものです。彼の考えでは、真理は恣意arbitriumのうちにあるというものです。
 ただしこの恣意とは、後で問題にするように、知性から離れた心的活動ではなく、むしろ、その逆に、知性なしにはありえない心的活動を意味しているとおもわれます。このことは後で問題にしますが、今、ここで質問者が問題にしたいのは、真理はことばのうちにあるとは、真理は、認識活動のうちにあることだ、とホッブズが真理論をさらに発展している点です。
 「真理は事物のうちにではなく、ことばのうちにある」という彼の主張は、結局、真理は、知性を基礎とした認識活動のうちにある、という主張とみなすことができる。このことは、第3章7節に続く8節冒頭で「Intelligitur hinc veritati et falsitati locum non esse nisi in iis animantibus, qui oratione utuntur.ここから、真理と虚偽は、発話oratioをおこなういのちあるもの(動物)animantiaのうちにのみ存することが理解される」と彼が述べていること、そしてさらには「Quemadomodum igitur orationi bene intellectae debent homines, quicquid recte ratiocinantur, ita eidem quoque male intellectae debent errores suos ;それゆえ人間は、正しい推論を、十分に知性認識された言語表現に負っており、同様に、自身の過ちは、同一の言語表現ではあるが知性認識が不完全な言語表現に負っているのである」と述べていることから明らかです。すなわち、ホッブズは、真偽を決定することばの使用が、認識活動と密接な関係にあると考えているのです。
 このように、真理は事物ではなくことばにある、いう彼の考えは、真理は認識活動にあると言う考えを示しています。注目したいのは、こうしたホッブズの真理観は、彼独自の認識ではなく、実は、むしろ伝統的な真理観であるといえることです。そして特に「真理は事物ではなく知性のうちに成立する」と語るトマスの『真理論』での議論はホッブズの真理観の前提であったと推測されます。事実、『真理論』第一問第一項の回答で、トマスは、真理は、事物と知性との対等関係にあると述べた後、つづく第二項回答において「事物は、知性と対等関係にある限りでのみ、真であるといわれる。ここから、事物のうちには、真なるものは、後で見出されるのであり、それに対し、知性のうちには真なるものは先に見出されるのであるRes autem non dicitur vera nisi secundum quod est intellectui adaequata; unde per posterius invenitur verum in rebus, per prius autem in intellectu」と述べています。トマスは、事物の真は、知性において成立した真理なしにはありえないと繰り返し説きます。この発想は、ホッブズの真理観と異なるものではありません。なにより、ホッブズが自身の真理論を展開する際、トマス由来の伝統的真理論は無視できぬものであったと思われます。それは、ホッブズの物体論3章全体が、伝統的論理学および形而上学を前提にした議論であることは、一見して明らかであるからです。したがって、ホッブズの真理論に独自性をなにか認めるならば、伝統的な真理観との比較を通して、明らかにされるべきであると思われます。
 まとめると、「真理は、事物のうちにではなく、ことばのうちにある」というホッブズの言の解釈には、伝統的真理論の理解が不可欠です。したがって、そのことを無視した理解は不正確に陥ります。そして、「真理は、事物のうちにではなく、ことばのうちにある」という言のうち、彼が、事物に認める真理性とは、その事物が「つくりもの」ではない「ほんもの」であることを意味するということです。したがって、この意味で事物のうちに真理があるとしても、その関係は、川添氏が提案したような、真理と事物のcausaの関係とは、無関係なのです。事物が「ほんものである」といえる意味で、事物が真理性をもったとしても、ホッブズの考えでは、事物の真理性は、命題の真理に依拠することを我々は見ました。したがって、事物の真理が認められたとしても、しかし、真理は結局「ことばのうちにある」のです。
 さて、1)の最後に、事物と抽象名がcausaの関係にある、としたホッブズの見解について付言したいと思います。事物(偶有性)と抽象名、具体名の間にcausaという関係をホッブズが置いたのは、伝統的な唯名論の克服が主たる動機だったと思われます。真理論の確立のためには、論理学の構築が不可欠ですが、その際、普遍をどう解するかが、唯名論の大きな課題でした。唯名論は、普遍を個と同じレベルでの存在者と認めないからです。そこで普遍の代わりに、抽象が大きな役割を果たすことになります。しかし、抽象という存在はいったいどう説明されるのか。これが大きな問題でした(S.D.Bella 2002)。ここでホッブズが提唱したのが、抽象名は、事物(偶有性)とcausaの関係にある、という論なのです。
以上のような文脈からすると、事物と名(抽象名)のcausa連関は重要であるという、川添氏の指摘は、ある意味で正しいと思われます。ホッブズのcausa概念分析は、彼の真理論の理解をより深化する鍵となると推測されます。
 しかし、今回の氏の発表では、上記のような唯名論の文脈は考慮されていなかったように思われます。また、川添氏の解釈において、causaがいったい何であるのか、ということは、明確化されていませんでした。後日、氏に確認したところ、causa概念は、すくなくとも因果的なものではないが、あまりはっきりしていないといいうことでした。しかし、causa概念が明確化されぬ限り、質問者が見る限り、川添氏の発表の骨子そのものも、不透明になるのではないでしょうか。


2)真理と恣意の関係。「真理は事物のうちではなく、ことばのうちにある」とは、真理は人間の恣意のうちにある、ということを指すとすれば、この「恣意」とは何であるのか。 次に、質問者は、ホッブズにおける「恣意」について疑問を持ちました。『物体論』第3章7節から8節にかけて、ホッブズは、真理がことばのうちにある、とは、真理が恣意のうちにある、ということに他ならない、と論を進めます。しかし、ここでいう「恣意」とは何であるのか。これが質問者の問題です。
 ここで、川添氏の論点を整理しましょう。先に見たように、「真理は事物にもcausaという形で密接なかかわりを持つ」というのが、川添氏の主張でした。川添氏の懸念は、ホッブズの真理論が、我々の恣意arbitriumの産物であることばにすべて依拠する形で真理が構築される、という点にあります。だからこそ、川添氏は、真理は事物と無関係ではない、ということを示すことで、「真理は、事物のうちにではなく、ことばのうちにある」という主張は留保つきで理解されるべきだと考えたのです。しかし、すでに見たように、質問者の考えでは、川添氏のつけたような留保は不要です。
では、真理と恣意の関係はどのように考えられるべきでしょうか。ここでホッブズの論を整理しましょう。ホッブズは、真理は、ことば、すなわち、主語と述語の包摂関係によって決定されるとし、そして、さらには、こうしたことばを使う者によって、真理は決定される、と考えました。「真理と虚偽は、発話oratioをおこなういのちあるもの(動物)animantiaのうちにのみ存する」のです(第3章8節)。彼によれば、真偽は、ことばを持つものの判断がもつものであり、この意味で、真偽の判断が出来ることは、ことばをもつものの特権なのです。この意味で、真理は、ことばを用いる者のうちにあるのです。では、真理が存することばを用いる者の「うち」とはどういう場所なのでしょうか。
 ここで、3章8節の最後を見ると、次のような興味深い帰結が見られます。すなわち、ホッブズは、真理は、ことばを用いる人間の恣意arbitriumのうちにある、と言っているのです。「veritates omnium primas ortas esse ab arbitrio eorum qui nomina rebus primi imposuerunt vel ab aliis posita acceperunt. Nam exempli causa, verum est Hominem esse animal, ideo quia eidem rei duo illa nomina imponi placuit.すなわち、あらゆるもののなかで第一の真理は、名nominaを第一に事物におき、また、他の人aliisにより置かれた名を受け取る人の恣意arbitriumから生まれたのである。というのも、たとえば、人間は動物であるということが真理であるのは、同一の事物にこれらの二つの名前を置くことが好まれたからである」。ことばには多くのルールがありますが、そのルールを作り、ことばnominaを事物に適合させたのは、人間の恣意である、とホッブズは考えます。そして、時として、既存のことばのルールをそのまま受け取るかどうかも、人間の恣意のうちにある、というのです。このようにことばが人間の恣意においてあるならば、真理もまた、人間の恣意のうちにあることになります。なぜなら、彼によれば、真理はことばのうちにあるからです。たしかに、ことばは、人間の恣意に依拠するものであることは、ホッブズでなくても賛成するでしょう。なぜなら、ことばは制度的なものであり、時や場所に応じてどのことばがある事物を指すのかは、異なりうるからです。
 以上のようなホッブズの論は、承服できぬ点が含まれているように見えます。特に、ことばを真理と密接に結びつけることで、真理も人間の恣意のうちにある、という点が問題に見えます。とりわけホッブズは、人間の恣意とは、「力あるもの」の恣意であると考えています。しかし真理は、力あるものの恣意のうちにあるのでしょうか。通常、われわれは、真理は、人間の恣意から独立していると考えます。なぜなら、いつ、どこでことばを恣意が決定しようと、真理は、いつ、どこ、といったことにはかかわりないと考えるからです。それでは我々はホッブズの主張をどう理解すべきでしょうか。質問者は、ここで、ホッブズにおける恣意arbitriumとは、通常我々が解するような意味での、知性認識から離れた心の働きを意味するのではない、と考える必要があると思います。川添氏の発表でもうひとつはっきりしなかったのは、このarbitriumの使い方でした。質問者は、ホッブズにおけるarbitrium概念の確認は、川添氏が問題にした第3章7節の「真理は事物のうちではなく、ことばのうちにある」というホッブズの論に直結する、重要な問題であると考えます。
 ことばに対し我々が持つ恣意とは、ことばを事物に適用することの自由裁量を指します。ところが、ホッブズにおける恣意arbitriumとは、通常我々が解するような意味での、知性認識から離れた心の働きを意味するのではない、と質問者は考えます。事実、彼は次のように言います。「Quemadomodum igitur orationi bene intellectae debent homines, quicquid recte ratiocinantur, ita eidem quoque male intellectae debent errores suos.人間は、正しい推論を、十分に知性認識された言語表現に負っており、同様に、自身の過ちは、同一の言語表現ではあるが知性認識が不完全な言語表現に負っているのである」。ここから、ホッブズが、ことばはことばを用いる我々のうちにある、と述べたとき、大きな制約を設けていることが明らかです。すなわち、我々がどんな知性認識のレベルであろうと、ことばを用いさえすれば、そのことによって、かならず言説が真になる、とはホッブズも考えていないのです。ホッブズにおいても、ことばは知性認識に基づいていなければ真にはなりえないのです。
 ホッブズにおいて、ことばは、知性認識に基づいていなければ真にはなりえません。したがって、彼にとって、恣意とは、知性認識を前提にした自由裁量であることになります。さて、この観点から、ホッブズが、恣意的にことばを事物に置くものを「力あるものfortia」だと考えていることの意味を、考えてみることにしましょう。彼によれば、「力あるもの」とは、盲目的にことばのルールに従うのでなく、時にはことばのルールを破ることさえあるものです。真理は、こうした「力あるもの」が恣意的に「事物に名を置く」ことによって決定される、とホッブズは主張しています。ホッブズのこの主張は、一見する限り、人間中心主義的真理観にも見えます。すなわち、「力あるもの」である権力者が、真理さえも自己の恣意により決定する権限をもつ、と主張しているように見えます。ところが、ホッブズにおいて、力あるものが、真理を自己の恣意により決定する、という、このことは、ことばは知性認識に基づいていなければ真にはなりえない、という、先の主張と対立しているわけではありません。それは、第3章8節を見る限り、ことばは知性認識に基づいていなければ真にはなりえない、という主張も、また、力あるものが恣意的に「事物に名を置く」ことによって真理が決定される、という主張も、ホッブズにおいては、「そして」etという接続詞で並列して結ばれており、対立するものとしては語られていません。両者が相反する主張であるとはホッブズは考えていないのです。
 さて、そうだとすると力あるものが指摘に事物に名を置くとはどういうことであるのか。そのために、なぜことばのルールを破ることが「力あるもの」のすることなのか、考えてみる必要があります。それはことばがある意味でネガティブな側面をもつことと密接な関係があります。ホッブズは、ことばについて「哲学の虚飾がただ人間にのみふさわしいのと同じく、不合理な教理の醜悪さも、ただ人間にのみふさわしい」と述べます。これはことばを用いる人間を揶揄した表現だと考えられます。そして、ことばが「虚飾」となり「不合理な教理」という「醜悪さ」をもたらすにいたるとは、ことばが、過剰になり、不合理性の温床になることを意味しています。そして、こうした事態を招いたのは、ことばを用いる人間であるとホッブズは考えます。
 そして、ホッブズは、こうした事態が生じたのは、ことばを用いる我々の責任だと考えます。ホッブズは、我々人間のうち「弱弱しく、えり好みが激しい性質」のものは、ことばに「絡めとられる」と考えます。「ことばに絡めとられる」とは、ことばの論理性を無視して、結果、無用なことばをつらねることを意味していると考えられます。このようなことばに絡めとられた人間が、ことばに虚飾をもたらし、また、不合理さえもたらすのだとホッブズは考えています。こうした事態は、真理はことばのうちに存する、というホッブズの真理観からすると、具合が良くないのは明らかです。ホッブズにおいては、ことばは、それ自体が不合理性を含むものであってはならないからです。
 「力あるもの」は、上述のような、不合理性さえ招きかねないことばの飽和状態を打破するものであるとホッブズは考えています。「力あるもの」は、ことばの不合理性を打破し、新たに秩序付けることで、ことばは、真理がそのうちに存する場所になりえるのです。これが、力あるものが、恣意的に事物に名をおく、ということの意味であると思われます。
 さて、上記のような意味で言われる「力あるもの」は、知性認識を持っていないといえるでしょうか。もし知性認識がなかったならば、力あるものが恣意的に定めたことばは、不合理を含む可能性が出てきます。しかし、このことこそ、不合理でしょう。むしろ、力あるものは、知性認識に基づく恣意をもつものではないでしょうか。知性認識に基づいた恣意によって、ことばを用いることが出来るからこそ、力あるものは、ことばの不合理性を打破し、新しいことばの秩序付けをおこなえるのではないでしょうか。
 このような力あるものによる「事物に名を置く」こととは、結局、どのようなものなのでしょうか。「事物に名を置く」ということが「恣意的なものだ」とホッブズが主張するとき、ここでいう「事物に名前を置く」とは、単なる名づけ(ある植物を「かえで」と名づける場合のように)と明らかに異なります。「事物に名を置く」とは、明らかに、単語のレベルではなく、命題(主語と述語の包摂関係)のレベルにかかわる行為です。事実、彼は言います。「たとえば、人間は動物であるということが真理であるのは、同一の事物にこれらの二つの名を置くことが好まれたからである」。  「同一の事物に、二つの名を置くこと」ことが、事物に名を置くことであるとホッブズは言います。このように二つの名を同一の事物に置くとは、結局、命題を形成することにほかなりません。その命題の例としてホッブズが提示しているのが、「人間は動物である」という命題です。このような命題はすぐれて定義的なものであります。このような定義的命題の形成は、単語レベルでの名づけとはまったく異なります。なぜなら、定義的命題の形成は、不合理性を排除した知の構築を意味するからです。単語レベルでの名づけは、ある意味で、文字通り恣意的であるのに対し、定義的命題の形成は、そうではありません。矛盾を含まないことが要請されるからです。したがって、定義的命題の形成をおこなう恣意とは、知性認識を前提しなければならないことになります。知性認識とは、まさに、矛盾、不合理を排除する心的働きであるからです。
×

この広告は1年以上新しい記事の投稿がないブログに表示されております。