セミナーのお知らせ(資料)

第三回ライプニッツ・セミナーのお知らせ(資料)
第三回ライプニッツ・セミナーでは、スピノザ『エチカ』第3部第4命題〜第9命題、第4部第21命題〜第27命題、カント『判断力批判』第28章抜粋を資料として用います。当日は原文を第一資料としますが、翻訳も適宜用います。(翻訳 吉田量彦)
スピノザ『エチカ』第3部より
定理4 いかなるものも、外的な原因によってしか解体されえない。
証明
 この定理はそれ自体で明白である。なぜならものが何であれ、定義とはその当のものの本質を肯定するわけであり、否定することはない。別の言い方をすると、ものの本質を定立するわけであり、抹消することはない。したがってそのもの自体だけに注目し、外的な諸原因に目を向けない限りは、そのもののうちにそれを解体しうるような何ものも見出すことはできない。証明終了。


定理5 あるものが他のものを解体しうる限りにおいて、その両者は対立する本性をもつ。つまり両者は、同じ基体のうちにあることができない。
証明
 なぜなら、仮にそういう両者がお互いに一致しうるとすれば、あるいは同じ基体のうちに同時に存在しうるとすれば、その同じ基体のうちにそれ自身を解体しうるような何かが存在しうることになるわけで、これは(前定理により)不条理である。したがって両者は以下略。証明終了。


定理6 おのおののものは、自己の及ぶ限り、自らの存在に固執するよう努める。
証明
 なぜなら、そもそも個々のものとは[神=実体の]様態であり、神の諸属性をある決まった仕方で表現している(第1部定理25の系により)。つまり(第1部定理34により)、神がそれによって存在し作用している力を、ある決まった仕方で表現しているものなのである。そしていかなるものも、自らがそれによって解体されうるような何か、言い換えれば自らの存続を抹消するような何かを、自己のうちに持つことはない(この部の定理4により)。むしろいかなるものも、その存続を抹消しうるようなあらゆるものに対して対立する(前定理により)。したがってまた、自己の及ぶ限り、自らの存在に固執するよう努めるのである。証明終了。


定理7 おのおののものがそれをもって自らの存在に固執するよう努めている力conatusは、そのもの自身の現に働いている本質essentia actualisにほかならない。
証明
 ものが何であれ、そのものが持つ所与の本質data essentiaからは必ず何かが帰結するわけであり(第1部定理36より)、またものは自らの決まった本性determinata naturaから必然的に帰結することしか行えない(第1部定理29より)。だからあらゆるものの力は、言い換えればそれによってそのものが、単独であれ他のものと共にであれ何かを行う、あるいは行おうと努める力は、つまり(この部の定理6により)それによって自らの存在に固執するよう努めている力は、そのもの自身の所与の本質、すなわち現に働いている本質にほかならない。証明終了。

定理8 おのおののものがそれをもって自らの存在に固執するよう努めている力は、限りある時間ではなく、無限定な時間tempus infinitumを含んでいる。
証明
 なぜなら、仮に限定つきの時間を含んでいて、それによって、そのものがどれだけ持続するかあらかじめ決まっているとしよう。もしそうなら、その限定つきの時間が過ぎてしまえば、そのものの存在する力それ自体のみから、そのものが存続しえず解体されなければならないという帰結が生じることになろう。しかしこれは(この部の定理4により)不条理である。したがって、ものの存続しようと努める力は、いかなる限りある時間も含まない。むしろ反対に(同じこの部の定理4により)、もしものが外的原因によって解体されなければ、そのものを既に存続させている同じ力によって常に存続し続けるわけだから、したがってこの力は無限定な時間を含んでいる。証明終了。


定理9 精神は、ある無限定な持続の間中、明晰判明な観念を持つ限りでも混乱した観念を持つ限りでも自らの存在に固執しようと努めるし、このような自己の努力を意識している。
証明
 精神の本質は、諸々の十全な観念と非十全な観念から成っており(この部の定理3で示したように)、したがって(この部の定理7により)後者を持とうと前者を持とうと、どちらの限りにおいても自らの存在に固執しようと努める。しかも(この部の定理8により)ある無限定な持続の間中そうするのである。他方で精神は(第2部定理23により)身体の受ける諸々の触発affectionesの観念を通じて必ず自己を意識しているわけだから、したがって(この部の定理7により)精神は自己自身のそうした努力を意識している。証明終了。
注解
 この努力は精神のみに関係づけられると意志と称せられるが、精神と身体にともに関係づけられると衝動と呼ばれる。したがって衝動とは、人間の本質そのものにほかならず、その本性からは当人自身の保存ipsius conservatioに役立つような事ごとが必ず帰結する。まただからこそ、人間はそうした事ごとを行うよう決められているのである。さらに言えば、衝動と欲望の間には何の違いもない。ただ、欲望とは一般に、ひとびとが自分の衝動を意識している限りで彼らに帰せられるものであるから、こう定義できるだろう。すなわち欲望とは、[当の衝動の]意識を伴った衝動である。そして以上すべてから確実なのは、私たちはそれが何であれ、よいと判断するからそれに努めたりそれを意志したり求めたり欲したりするのではない、ということである。むしろ逆に、私たちはそれに努めたりそれを意志したり求めたり欲したりしているから、それをよいと判断するのである。

第4部より
定理20 誰であれ、自らに有益なことを得ようとして、つまり自らの存在を保とうとしてこれに成功すればしただけ、その人は徳に恵まれている。そして反対に、自らに有益なこと、つまり自らの存在を保つことをないがしろにすればしただけ、その人は無力である。
証明
徳とは人間の力そのものであり、この力はその人の本質のみによって定義される(この部の定義8により)。つまり(第3部定理7により)、人間がそれをもって自らの存在に固執しようと努める力のみによって定義される。だから誰であれ、自らの存在を保とうとしてこれに成功すればしただけ、その人は徳に恵まれており、またしたがって(第3部定理4及び6により)、誰かある人が自らの存在を保つことをないがしろにすればしただけ、その人は無力である。証明終了。

注解
 だから誰であれ、当人の本性に反する外的な原因に打ち負かされでもしない限り、自らに有益なことを求めることを、言い換えれば自らの存在を保つことをないがしろにしたりはしない。ひとが食を拒んだり自殺したりすることはさまざまな形で起こりうるけれども、はっきり言って、自らの本性の必然性に導かれてそうするものなど一人もいない。みな外部の原因に強制されてそうするのである。たとえばたまたま剣を取っていた右手を他人にひねられて、刃を自分自身の心臓へ向けるよう強いられれば、ひとはその他人に強制されて自殺する。あるいは暴君の命令で、セネカのように自分の血管を切り開くよう強制されて、つまりより大きな害をより小さな害によって避けようと欲するから自殺する。あるいはさらに、ひそかな外的原因がその人の表象作用を支配し身体を触発した結果、身体がそれまでの状態に反した別の本性を備えることになり、そしてそのような別の本性の観念は[それまでのその人の]精神のうちに存在しえない(第3部定理10により)から自殺する。これに対し、人間が自らの本性の必然性に導かれて自分が存続しなくなるよう努めたり、別の形に変容しようと努めたりすることは、無から何かが生じたりするのと同じくらいありえない。こういうことはそこそこ落ち着いて考えれば誰にでも分かるはずである。


定理21 誰であれ、存在することや行為することや生きること、つまり現実に存続することをいつも同時に欲していなければ、幸せであることやよく行為することやよく生きることを欲しえない。
証明
 この定理の証明、というかむしろ事柄そのものがそれ自体で明白なのだが、同じことは欲望の定義からも帰結する。というのも(第3部感情の定義1により)、幸福にあるいはよく生きよう、行為しよう等々といった欲望は人間の本質それ自体であり、つまりは(第3部定理7により)おのおのが自らの存在をそれによって保とうと努める力なのだから。したがって誰であれ以下略。証明終了。

定理22 この徳(つまり自己保存に努める力)に先んじてはどのような徳も考えられない。
証明
 自己保存に努める力はものの本質そのものである(第3部定理7により)。だから仮にこの徳、つまりこの力に先んじて何らかの徳が考えられるとすれば、(この部の定義8により)ものの本質そのものが本質自体に先んじて考えられることになるわけで、これは(自明のことだが)不条理である。したがってどのような徳も以下略。証明終了。


 自己保存に努める力こそ徳の第一の、そして唯一の根拠である。この原理に先行するどのような他の原理も考えられず(前定理により)、またこの原理なしにはどのような徳も考えられないのだから(この部の定理21により)。


定理23 ひとは、十全でない観念を持つことによって何かを行うよう決定される限りは、端的な意味で徳によって行為しているとは言えない。そう言えるのはただ、その人が知性を働かせるintelligereことによって[何かを行うよう]決定される場合に限られる。
証明
 十全でない観念を持つことによって何かを行うよう決定される限り、その人は(第3部定理1により)受け身であるpatitur。つまり(第3部定義1と2により)自分の本質のみによっては知られないようなことを行っている。つまり(この部の定義8により)自分自身の徳から帰結しないようなことを行っている。これに対して、知性を働かせることによって何かを行うよう決定される限り、その人は(同じ第3部定理1により)能動しているagit。つまり(第3部定義2により)自分自身の本質のみによって知られることを、言い換えれば(この部の定義8により)自分自身の徳から十全に帰結することを行っている。証明終了。


定理24 端的に徳によって行為するとは、われわれ[人間]においては、自らに固有のproprium利益を求めるという原理に基づいて1、理性の指図によって行為し、生き、自らの存在を保つこと(この三つは同じことを意味しているのだが)に他ならない。
証明
 端的に徳によって行為するとは、(この部の定義8により)自らに固有の本性propria naturaの法則によって行為することに他ならない。ところでわれわれ[人間]は、知性を働かせている限りにおいてのみ、能動している(第3部定理3により)。したがって徳によって行為するとは、われわれにおいては、理性の指図によって行為し、生き、自らの存在を保つことに他ならないわけであり、しかもこれは(この部の定理22の系により)自らの利益を求めるという原理に基づいてそうなるわけである。証明終了。


定理25 自らの存在を他のもののゆえに保つよう努めるものはない。
証明
 おのおののものがそれをもって自らの存在に固執するよう努めている力は、そのもの自身の本質のみによって定義される(第3部定理7により)。そのものの本質が与えられるだけでよいのであって、各自が自らの存在を保とうと努めることが確実に帰結するために、他のものの本質が必要となるなどということはない(第3部定理6より)。さらにいえば、この定理はこの部の定理22の系からも明白である。というのも、仮にひとが自らの存在を他のもののゆえに保とうと努めるとするなら、その「他のもの」が(それ自体で明白なように)[その人の]徳の第一の根拠ということになるだろう。これは(上述の系により)不条理である。よって自らの存在を以下略。証明終了。


定理26 われわれが理性によってそれに努めることは、何であれ、知性を働かせることに他ならない。また精神は理性を用いる限り、知性の働きに役立つことしか自分にとって有益だと判断しない。
証明
 自らを保存しようと努める力は、そのものの本質以外の何ものでもない(第3部定理7により)。この本質というものは、そのようにあり続ける限り存続に固執し(第3部定理6により)また自らの所与の本性から必然的に帰結することを行う力を有すると考えられる(第3部定理9注解の「衝動」の定義を見よ)。しかるに理性の本質とは、ものごとを明晰判明に理解している限りでは、われわれの精神に他ならない(第2部定理40注解2における理性の定義を見よ)。したがって(第2部定理40により)われわれが理性によってそれに努めることは、何であれ、知性を働かせることに他ならない。さらに言えば、精神が理性を働かせているratiocinari限りにおいて自らの存在を保とうと努めている場合、(この証明の前半部分により)そのような精神の力は知性を働かせることintelligereに他ならないわけだから、この知性を働かせようと努める力こそ(この部の定理22の系により)徳の第一の、そして唯一の根拠なのであって、よって(この部の定理25により)われわれは何らかの[別の]目的のためにものごとを知的に理解しようと努めることはないだろう。むしろ反対に、精神は理性を働かせる限り、知性の働きに役立つことしか自分にとってよいことと思えないだろう(この部の定義1により)。証明終了。


定理27 われわれにとって確実に「よい」「わるい」と分かるのは、知性の働きに本当に役立つものか、知性を働かせる妨げとなりうるものか、そのいずれかのみである。
証明
 理性を働かせている限り、精神は知性を働かせることしか求めないし、知性の働きに役立つことしか自分自身に有益と判断しない(前定理により)。しかし精神は(第2部定理41および43により−またその注解も見よ)十全な観念を持つ限りでしか、あるいは(第2部定理40によれば同じことなのだが)理性を働かせる限りでしか、ものごとが確実かどうか分からない。したがって、われわれにとって確実に「よい」と分かるのは、知性の働きに本当に役立つもののみである。また反対に[確実に]「わるい」と分かるのは、知性を働かせる妨げとなりうるもののみである。証明終了。

カント『判断力批判』より
第28節 力としての自然について(抜粋)
 力というのは、さまざまな大きな障害に打ち勝つ能力である。それ自身力を持つ他のものに抵抗されて、しかもこれに打ち勝つ場合には、同じ力でも威力と呼ばれる。自然が美的判断において力とみなされ、かといってわれわれに威力を及ぼすことはないという場合、そのような自然は力学的に崇高である。
 自然が力学的に崇高と判定される場合、その自然は必ず、恐れFurchtをかき立てるものとしてイメージされているはずである(ただし反対に、恐れをかき立てるものなら何でも崇高と見られるわけではない)。というのも、美にまつわる(つまり[論理的な]概念によらない)判断では、障害に打ち勝つ力がどのくらいあるかは抵抗の大きさを見て決める他ないわけだが、そもそもわれわれが抵抗したくなる対象というのは何であれ一種の災いなのであり、そしてもしわれわれの能力ではそれに抵抗しきれないと思うなら、そのような災いは恐れの対象となる。したがって、自然は美的な判断力にとって、恐れの対象として見られる場合に限ってのみ、力すなわち力学的に崇高と見なされる。
 しかし[恐れといっても]、ひとはある対象を怖がっていなくても、それを恐るべきfurchtbarものと見なせるものだ。どういう場合かといえば、その対象に仮に抵抗しようとしたところで、どんなに抵抗しても無駄に終わるだろうと思われるような場合である。たとえば徳ある人は神を恐れるが、べつに神を怖がっているわけではない。神やその指図に抗おうとするなどと、その人自身は夢にも思わないのだから。しかしそのような人は、抗おうとすること自体が端的に不可能なわけではないと分かっているからこそ、そういう事態を想定してみるたびに、神を恐るべきものと認めることになる。
 恐怖にとらわれている人は、自然の崇高な側面について何も判定できない。自分の嗜好や欲望にとらわれている人が、美について何も分からないのと同じである。恐怖にとらわれた人は、自分に恐怖心を吹き込むような対象を直視したがらない。また本気で恐がっていればなおのこと、その恐怖に満足感を覚えるようなことはありえない。だからこそ、厄介事がなくなったことによる快適な気分は喜びFrohseinとなるのである。しかしこの喜びは危険からの解放に由来するものだから、もう二度とそういう目にあいたくないという気持ちを伴った喜びである。当然、危険にあっている最中の気持ちなど思い出したくもないだろうし、ましてや[崇高の場合そうであるように]自らすすんで同じ気持ちを味わう機会を探すなど、思いもよらないだろう。
 鋭く張り出した、まるで人を威圧しているような大岩。天空にそびえ立つ、稲光や雷鳴を従えた積乱雲。自らの破壊力を余すところなく発揮している[噴火中の]火山。後にはただ破壊の爪痕を残すだけの大嵐。荒れ狂う果てしない大海原。大河にできた巨大な滝、等々。これらはすべて、われわれが全力で抵抗しようとしてもお話にならないほど強大な力を有している。しかしこれらの光景は、もし安全な場所にいさえすれば、恐ろしければ恐ろしいほどなおさら魅力的に映るものだ。こうしたものを、われわれは崇高と呼びたくなる。なぜならこれらは、心の強さを平常の並の値を越えて引き上げ、われわれの心のうちにまったく別の種類の抵抗力を発見させるからである。このまったく別の種類の抵抗力こそわれわれに、一見全能な自然の猛威と対峙することを可能にする勇気を与えてくれるのである。
 というのも[前節までの、いわゆる数学的崇高を取り上げた箇所で既に]われわれは、自然の計り知れなさを感じることで、また自然の領域の雄大さを推し量るのにふさわしい美的尺度を用意できない自分の能力の不甲斐なさを感じることで、自分自身の限界を経験した。しかしそれにもかかわらず、われわれはあの時自分自身の理性の能力のうちに、もうひとつの尺度、感性的ならざる尺度を見出していた。この尺度は、あの無限性すら単位として自らの支配下に置いており、この尺度に比べたら自然のうちにあるあらゆるものはちっぽけに見えるほどであった。つまりわれわれは自らの心のうちに、たとえ自然が計り知れなくてもそのような自然に対するある種の優越性eine Überlegenheit über die Naturを見つけていたのだ。[ここで取り上げられている]自然の力についても話は同じなのである。つまり自然の力はたしかに抗いがたいものであり、われわれも自然のうちなる存在者として見られる限りでは、自然に対して物理的に無力であることを思い知らされる。しかしこのような抗いがたい自然のおかげで、われわれには、自分をそのような自然の力に依存しないものと判定する能力があるということが分かる。またわれわれのうちには、自然に対するある種の優越性があると分かる。普通自己保存というと、われわれの外部の自然によって脅かされたり危うくされたりしうるものだが、この優越性に基づいて、それとは全く別の種類のある自己保存eine Selbsterhaltung von ganz anderer Artが営まれるのである。ひとはそこでは、あの[自然の]威力に屈せざるをえないにもかかわらず、われわれの人格のうちなる人間性は貶められることなくあり続ける。そういうわけで、われわれの美的判断においては、自然というものは恐れをかき立てるから崇高と判定されるのではなく、むしろわれわれのうちなる力(自然にあらざる力)を呼び覚ますから崇高と判定される。このような力が呼び覚まされれば、われわれが[普段]気にかけているものごと(財産や健康や命)は取るに足らないものと感じられ、したがって自然の力も(これらのものごとに関しては、われわれは言うまでもなく自然の力に服しているのだが)、われわれの最高の諸原則とその存亡がかかっている場合には、われわれとわれわれの人格性にとって節を屈すべきものとは見なされなくなるのである。したがって自然がこの時崇高と称されるのは、ひとの構想力[=想像力]を高めて、自然にすら優る自らの使命に固有の崇高性を心に感じさせるような、そういう事例を[心に]描き出させるからでしかない。
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