セミナーの報告2

第3回ライプニッツ・セミナー報告2

カントとスピノザの自己保存概念―吉田量彦氏の発表を聞いて              
            田子山和歌子(慶應義塾大学)


(比較するとは何か―現代的視点から見たカントとスピノザに関する吉田氏の見解) 
 比較するとは研究することに他ならない。比較研究と特に述べることがない場合も、われわれは研究をするときには必ず何かと比較している。
 哲学史研究も同様である。われわれは、時代を超えてさまざまな哲学者を比較することで新たな哲学史の鉱脈を探し出そうとする。
今回の吉田氏の発表において扱われたカントとスピノザは「西洋近代哲学史の通例的理解では水と油のような対立関係におかれることが多」く、比較対象としては極めてまれな対であると吉田氏は考えている。この意味するところは、カントとスピノザの両者は単純な意味での対立関係にあるということではないだろう。なぜなら対立関係にあるならば比較する意味は十分あるからである。むしろ、カントとスピノザは、哲学的・思想的発想の点でどこまでいっても平行関係にあるというのが通常の哲学史的理解である。これが吉田氏の言わんとするところであるとおもわれる。いわゆる哲学史においては、カントとスピノザは、比較のポイントさえつかめないほど離れているというのである。
 以上のような見解に対し、吉田氏は、カントとスピノザに見られる「自己保存力」の概念は、カントとスピノザの両者が合間見える場所になりうると考える。カントとスピノザにおける関係は平行線上にあるようにみえて実はそうではなく、巨視的に見れば、自己の保存という接点において交わっているというのである。より厳密に言うならば「理性」の自己保存を最重要視する点でスピノザとカントは歩を同じくしているというのである。 
 吉田氏によれば、理性の自己保存という考え方は、カント、スピノザに確かに共通に見られ、しかも倫理学が成立する重大な契機を含んでいる。そして理性の自己保存力が倫理学の成立に結びついているという認識こそが、吉田氏の今回の発表の眼目であるといえる。というのは、吉田氏の理解によれば、アドルノをはじめとする現代の識者は、自己保存の概念を「エゴイズム」であると評し、自己保存の概念を倫理学的文脈において排除する傾向にあるからである。
 アドルノらが自己保存を「エゴイズム」とみなすのは、自己保存を一種の野蛮なものと考えているからである。それだけでない。アドルノらは理性の働きをも野蛮な自己保存に従属して働くものと考え、結果、理性の働きをも野蛮なものと考えている。これに対し、カントやスピノザはどうか。カントやスピノザもまた、確かに理性と自己保存が合一する可能性を積極的に認めるが、しかし、彼らにとって、理性と合一した自己保存は野蛮なものではない。なぜなら、理性が自己保存と合一するとき、自己保存は「理性的なものになる」とカントとスピノザは考えるからである。自己保存が理性的なものになるとき、こうした自己保存が、野蛮なもの、すなわち、非理性的なものになるはずはないだろう。理性的な自己保存は、理性にかなったものであり、非理性的なものではない。
 理性と自己保存の関係をめぐるアドルノらとカント・スピノザの見解の相違は、理性と欲求の合一という、哲学・倫理学上の根本問題に光を当てるのに役立とう。なぜならカントにおいてもスピノザにおいても自己保存概念とは欲求概念の一つであることは間違いないからである。この限りで、吉田氏の指摘は興味深い。

(カントとスピノザの共通点と相違点に関する吉田氏の見解、および、セミナーで出された意見) 
 では、カントとスピノザの関係はどうか。アドルノらとの比較とは別に、カントとスピノザを純粋に比較したとき、彼らの考える理性の自己保存の概念にどれほどの共通性が見出せるのか。
理性の自己保存の概念に関するカントとスピノザの共通点とは何か。ひとついえるのは、カントもスピノザも、精神のどんなレベルの働きも、働きである限りは自身の働きを保存すると考えていることである。どんなレベルの働きも自らの働きを保存する、という、このことが、自己保存の意味であるとするならば、当然のことながら、こうした理性の働きもまた自らを保存することになる。なぜなら理性の働きも精神の働きの一種であるからである。そして理性もまた自己を保存するというこのことから、結局、理性の働きと自己保存の働きの合一が理解されることになろう。このようにカントやスピノザにとっては、理性と結びついた自己保存とは、理性の働きが自らを保存することである。だからこそ自己保存は、アドルノらが「野蛮」と呼ぶ非理性的なものではないのである。
 理性の働きは自らを保存する。これがカントとスピノザの考えである。では、理性以外の働きはどうであるのか。すなわち非理性的な働きは自らを保存するのか。もちろん、理性以外の働きである非理性的な働きもまた、理性と同様、自らを保存する。なぜならどんなレベルの働きも自己保存をするとカントもスピノザも考えるからである。では、理性以外の働きが有する自己保存と、理性が有する自己保存はどんな関係にあるのだろうか。実はこの点で、カントとスピノザは意見を異にする。これは吉田氏の指摘しているとおりである。吉田氏の考えでは、スピノザにおいて理性の自己保存は、理性以外の働きの自己保存の延長線上にある。すなわちスピノザにおいて理性以外の働きの自己保存は、理性の働きの自己保存の前段階とでもいうべきものであり、これらの自己保存の間には段階差はあるものの、断絶があるわけではない。これに対し、カントの場合は、理性の自己保存は、理性以外の働きが持つ自己保存と完全に断絶している。吉田氏いわく「自然的諸条件への順応行動としての自己保存と、自律へ向かう理性の力を断絶的にとらえ」ているのがカントだというのである。
 カントもスピノザも、自己保存を、理性的働きであれ、あるいは、非理性的な働きであれ、どのレベルの働きにも認めている点は共通である。にもかかわらず、非理性的な働きの自己保存と理性の自己保存との関係を、連続的と見るかそれとも断絶したものと見るかで、スピノザとカントは異なる。吉田氏はこのように考える。問題はしかし、こうしたカントとスピノザの相違をどう評価するかである。吉田氏自身は、カントとスピノザの相違については哲学史全体という巨視的観点からすれば(特にアドルノらとの比較において)カントとスピノザの相違はそれほど大きなものではないと考えている。カントとスピノザはともに理性の自己保存を、野蛮さとは対立する、理性的なものと認めている。この点を吉田氏は評価しているのである。
 しかし、非理性的な働きの自己保存と理性の自己保存との関係を連続的と見るかそれとも断絶したものと見るかで異なる、カントとスピノザの差異は、相当大きなものだといえないだろうか。すなわち、カントとスピノザとでは、おなじく理性の自己保存を認めていても、しかし、自己保存という考え方を支える問題意識ないし前提がそもそも異なる。そうだとすると、同じく自己保存という考え方を理性について用いているとしても、実は、カントとスピノザは、自己保存という考え方については、比較の仕様もないほど異なる問題意識を抱え、また、異なる前提に立っていたことになりはしないか。スピノザとカントが立っている前提ないし問題意識はお互いまったくの無関係だ、という、この意味でカントとスピノザが相違しているならば、彼らを比較することは、比較の名に値しないことになろう。比較することとは、本質的な意味での共通性が比較される双方に備わっている場合にはじめて、意義を持つとおもわれるからである。もしカントとスピノザがこの種の共通性を持たないとするならば、カントとスピノザをあえて比較する意味はないことになる。これがセミナーで出された見解であった。

(スピノザとカント―私の考え)
 スピノザとカントとの相違は、両者はまるで異なる問題意識の下にあり、なんら接点をもたないという意味での相違なのか。私(田子山)の考えでは、そうはおもわれない。しかしこの直感を正当化するためには、理性の自己保存と非理性的な働きの自己保存の関係についてのカントとスピノザの見解の相違はどこに依拠するか、ということについて、もっと掘り下げて分析する必要があるとおもうのである。そもそも「自己保存」という概念を、カントとスピノザはまったく同じ仕方で理解しているのか。
 カントとスピノザは、自己保存という概念をどう理解しているのか。私の考えではすでにこの段階でも、両者の理解は決定的に異なっている。それは、カントの場合の自己保存は外的なものの存在を不可欠とするが、スピノザの場合はそうではないとおもわれるからである。カントの場合、外的なものは「外なる自然」と呼ばれ、この「外なる自然」は自己保存概念を考える上で決定的なものとなる。ところが、スピノザの場合はそうではない。理性、非理性を問わずこれらの自己保存は、外的なものによって決定付けられることはない。自己保存にとって外的なものは不要である。スピノザの自己保存理解からすれば、カントの考えるような「外」は存在しないのである。自己保存にとって「外」が必要かどうか、この点は、理性の自己保存と非理性の自己保存の関係に関して、カントとスピノザの差異を説明する決定的根拠になるとおもわれる。

(カントの場合) 
 カントは、自己保存に外的なものの存在を必要とするのに対し、スピノザはそうではない。このことを説明するのに、あらためてカントを見ることにしたい。
自己保存と外的なものとの関係は、『判断力批判』第28節の「崇高体験」といわれる異常体験を通じて明らかにされる。崇高体験とは、われわれの外にある自然の脅威によりわれわれ自身の力が無力であることを気づかせるが、それと同時に、当の自然の脅威によりわれわれ自身の力を気づかせる、という非日常的な体験である。では、このような体験は自己保存とどのような関係するのか。
 カントは言う。「自然の力の抗いがたさは、われわれも自然的なものとみなされる限りで、たしかにわれわれが無力であることを、われわれに気づかせる。しかし同時に、こうした自然の力の抗いがたさにより、自然の力からわれわれが独立していることを判断する能力がわれわれにあること、そして自然に対するある種の超克がわれわれにあることに気づかされる。こうした自然の超克に基づく自己保存Selbsterhaltungは、われわれの外なる自然により脅かされ危険に曝される可能性のある自己保存とはまったく別種のものである」。
 ここでの「自然の抗いがたさ」とは、自然の脅威と同義である。そしてこの自然の脅威を前にするという体験によってわれわれは自分の力を気づかされることになる。カントによれば、この「われわれの力」とは「自然から自身が独立していることを判断できる力」を意味する。そして、このように自然からわれわれが独立していることを判断できる力は、われわれが「自然を超克すること」に結びつくとカントは考える。この自然超克の体験こそが、崇高体験と言われるものである。自然の脅威を前にしているのだから自然を克服するどころか自然に制圧される状態にあるのに、それでもなお、ある意味ではわれわれは自然を超克していることに気づかされる。こうした異常体験が、崇高体験なのである。
 ここで重要なのは、崇高体験にほかならぬ自然超克の体験は自己保存と密接な結びつきがあるとカントが考えていることである。自然超克は通常の意味での自己保存とはまったく異なる自己保存を可能にするとカントは考えている。では自然超克による自己保存とはどのようなものか。これを、カントは、通常の意味での自己保存と比較して説明する。カントによれば、通常の意味での自己保存とは「われわれの外なる自然に脅かされ危険に曝される可能性のある自己保存」である。どんな働きも、外なる自然の脅威に曝されるとき、自己保存の傾向を持つが、その自己保存とは、あくまで外なる自然の脅威という外因にもとづく受動的なものでしかない。このような自己保存は「自然超克」に基づく自己保存と対照的である。なぜなら自然超克とは、外なる自然に対しわれわれから働きかけを行うことだからである。
 以上から、自己保存を「外なる自然」に応じておこなうか否かが、二種の自己保存を区別することになる。ここで再び、理性以外の働きによる自己保存と理性の自己保存という二種の自己保存を見ることにしよう。そして、これら二種の自己保存を、先に述べた二種の自己保存、すなわち「外なる自然」に応じた受動的な自己保存と、「外なる自然」を超克するという意味での自己保存に重ね合わせてみよう。すると理性以外の働きによる自己保存は「外なる自然」から働きを受けた結果の自己保存であるのに対し、理性の自己保存はそうではないことになる。理性の自己保存は、外なる自然に対する働きかけ意味するのである。
 理性の自己保存は、外なる自然に対する働きかけを意味する。この限りで、理性の自己保存力はすぐれて能動的であるといえる。では、こうした理性の働きの能動性は無条件に認められうるのかというと実はそうではない。理性の自然超克の図式には、実は前提がある。それは、外なる自然はどんなものにも物理的に働きかけているという前提である。よって、理性的な働きであっても、外なる自然から物理的に働きかけられているかぎりでは、どこまでも受動的なものである。この意味では理性であっても他の働きと同様受動的なものである。しかし、こうした物理的な能動性とは別種の能動性を、外なる自然に対し持ちうるのが、理性の働きなのである。こうした他の働きの自己保存とは別種な、理性の自己保存は、崇高体験という異常な契機においてしか成立し得ない。これが崇高論の趣旨であった。

(スピノザの場合―自己保存力は外的なものを必要とするか)
 以上、崇高論におけるカントの自己保存理論を見てきたが、スピノザとの比較のためにここで確認すべきは、カントが考えるような二種の自己保存にはいずれにせよ「外なる自然」が不可欠だということである。ではスピノザはどうであろうか。カントが自己保存に「外なる自然」を必要としたのに対し、スピノザは自己保存に「外なる自然」を必要としないとおもわれる。
 スピノザには、自己保存力を語る上で、外なる自然のような外的なものは必要ない。このことを見るためには、スピノザにとって自己保存力とは何か見る必要がある。スピノザにおいては、自己保存力は、自身の存在を保存しようとする力conatus suum esse conservareといわれ、場合によっては、自己の存在に固執しようとする力conatus in suo esse perseverareともいわれる。スピノザにおいて「自身の存在を保存しようとする力」、「自己の存在に固執しようとする力」のいずれも、どんな被造物ももちうる力であると考えられる。ではなぜ被造物は、自己の存在を保存しようとする力を持つのか。スピノザは、これを、定義definitioの概念から説明する(第3部定理4)。
 事物の定義definitioとは、その事物が本来「何である」か、その事物本来の存在を説明するものである。こうした本来的な存在をスピノザは本質essentiaと呼ぶ。したがって、ある事物について定義が与えられたら、その事物は常にその定義されたとおりに存在しなければならないとスピノザは考える。これが定義の最大の特徴である。なぜなら、仮にいったん定義が与えられたにもかかわらず、定義が否定されたら、その事物本来の存在をしめす本質が否定されてしまうことになるからである。定義が否定されたら、事物はその本来の存在とは本質的に異なる別な存在になってしまうのである(第三部定理5)。ここから、事物はいったん定義が与えられたら、事物は、その本来の存在が否定されないように、その本来の存在を保とうとするのだとスピノザは考える(第三部定理6)。事物本来の存在である本質を事物が保とうとすることが、事物が「自己存在の保存力」をもつことなのである。
 事物が定義によりその本来の存在を与えられたら、その事物は、定義により与えられたそのとおりの仕方で存在し続けなければならない。自己存在の保存力はこのように、定義の特性に基づいて説明されることになる。ここで見るべきは、事物の自己存在の保存力は、事物の本質を説明する定義に基づいている、ということの意味である。事物の自己存在の保存力が事物の本質の定義に基づくとは、結局、事物の自己存在の保存力は、その事物の本質という内的なものに基づくということである。なぜなら、事物の定義とは、事物の本来の存在を説明するものであった。したがって、定義が否定されたら、事物の本来の存在である本質も否定されることになる。この意味で、定義とは、事物の本質そのものといえる。そして、こうした事物の本質が、自己自身とは異なる「外的」なものであるはずはない。もし事物の本質が自己自身とは異なる外的なものだとすれば、自己矛盾になるからである。ここから、事物の自己存在の保存力は、外的なものに基づくのではなく、むしろ、事物の本質という内的なものに基づくことになる。
 そしてこのことは、精神についても同様に言いうるだろう。スピノザは「自己存在の保存力を持つ事物」ときわめて一般的な形で語っているが、『エチカ』第三部の文脈においては精神を念頭においている。精神とは、スピノザによれば、「観念によって構成されるもの」と定義される。「観念によって構成される」という精神の定義が否定されることなど不可能である。仮にこの定義が否定されたら、精神は自己本来の存在である本質を否定されることになるからである。したがって、精神は、定義により決定された自己本来の存在を、決定されたそのとおり保持しようとする。このような自己存在の保存力は、精神にとって外的なものに基づくのでないことは言うまでもない。精神が自己存在を保存しようとする力は、「観念によって構成される」という精神の定義の不可変性に基づくのである。これは結局、精神の自己存在の保存力は、精神の本質という、精神に内的なものの不可変性に基づくということにほかならない(第三部定理9)。

(スピノザとカント再び―能動と受動) 
 精神の自己存在の保存力が基づくのは、精神の定義の不可変性である。精神の定義は、精神の本性を規定するものである以上、精神にとって外的なものではなく内的なものである。精神の自己存在の保存力は、したがって、精神の本質という内的なものの不可変性に基づいていることになる。そして私の考えでは、精神の自己存在の保存力が精神にとって外的なものではなく内的なものに基づいているという、このポイントは、受動と能動という哲学の最重要概念に関するカントとスピノザの見解の相違を見る上で決定的に重要であるとおもわれる。
 すでに見たように、スピノザの場合、自己存在の保存力は外的なものに基づくのではない。これはカントとの大きな違いである。カントの考える自己保存にとっては「外なる自然」という外的なものが不可欠だからである。そして、カントは、理性の自己保存は「外なる自然」に対する働きかけであることで能動的であると考え、非理性の自己保存は「外なる自然」からの働きかけられることで受動的であると考えたのである。ではこの能動ないし受動の点からスピノザを見るとどうか。ここで、スピノザが考える精神の自己存在の保存力にとっては、カントが考えるような意味での受動も能動も存し得ないことに注意したい。その理由は、スピノザが考える自己存在の保存力を有する精神にとって、カントの考えるような「外」の存在は前提されていないという、先に掲げたポイントによっている。カントの場合、精神にはその「外」があるからこそ、精神の自己存在の保存力は、能動的かそれとも受動的かに区別される。しかしスピノザにおいてはカントが考えるような意味での「外」がない以上、こうした「外」に準拠した能動および受動の働きを、スピノザ的な精神が持つはずはない。そもそもスピノザ的な意味での精神にとって、カント的な意味での能動ないし受動の働きを持つということは、いかなるポイントもないのである。
 スピノザの考える精神の自己存在の保存力にとって、カント的な意味での受動も能動も存し得ない。しかしスピノザであっても、受動と能動を問題にしているはずである。だとすると、スピノザにとって能動と受動はいかにして説明されるか。これについて、スピノザは、特に精神に関しては、精神がさまざまなレベルの状態をもっていることから説明する。彼によれば、精神のさまざまなレベルの状態は、精神に能動および受動があることを説明するという。具体的には、「十全でない観念を持つことによって何かを行うよう決定される限り、その人は(第3部定理1により)受け身であるpatitur。つまり(第3部定義1と2により)自分の本質のみによっては知られないようなことを行っている」(第三部定理29)。精神が不十全な観念を持っているときには、精神は受動的であるとスピノザは考える。それに対し、十全な観念を持っている場合は精神は能動的である。そしてこのような十全な観念により精神が構成されているとき、精神は「理性」ratioと言われる。ここから、精神が受動的なものから能動的な理性になるのは、精神の外がかかわるからではないことがわかる。精神が受動的なものから能動的な理性になるのは、精神を構成する観念のレベルの高低によるのである。精神の能動および受動は、精神内部のありかたによって決定されるのである。
 スピノザは、精神の状態のレベルの高低という、精神内部のありかたによって、能動および受動を説明する。このようにスピノザが能動と受動を理解する根拠は、個々の精神が、神という実体の展開形であることと無関係ではない。神という実体の持っている属性「思惟cogitatio」が、一定の仕方で様態化したものが、個々の精神である。こうした神の様態である精神に純粋な意味での外が存在することは、スピノザにおいては考えられない。なぜなら、精神と神は、様態と実体という形で結びついているのだから、様態である精神に外があることを認めることは、実体である神に外があることを認めることになるからである。そして神という実体に「外」があるということはスピノザにおいては考えられない。
 スピノザは精神の状態のレベルの高低という、精神内部のあり方によって、能動および受動を説明する。そして、こうした能動および受動の理解は、実体は「外」を持たないという、独特な実体理論と密接な関係にあるとする。このスピノザのポイントは、実は、スピノザとほぼ同時期に生きたライプニッツにも見られる。スピノザとライプニッツは、被造物を実体の展開形である様態とみなすか、それとも、それ自身も実体とみなすか、この点でまったく見解が異なる。が、しかし、実体は及びその展開形である様態は「外」を持たない、という点で両者は一致している。そしてこのような実体ないし様態は「外」を持たないということの一致から、スピノザとライプニッツは、被造物における能動と受動の区別に関して、同様の困難を抱えていたとおもわれる。むろん、神のような実体であれば、「外」がないという場合でも、能動性と受動性の区別を考える必要はない。神は無条件に能動的なものだからである。しかし、被造物はどうであるか。被造物とは神によって造「られる」ものである、あるいは、スピノザ的には様態化「された」ものである。この意味で、被造物の働きはすべて受動的というべきかもしれない。もしこの意味で被造物の働きは受動的であるとしても、他方でしかし、被造物における受動と能動の区別はやはり必要になるだろう。被造物の働きは他の被造物に対してもかかわりを持つからである。ところが被造物においても「外」がないとすれば、被造物において受動と能動の区別はいかにして可能なのか。このように考えるとき、スピノザが行った、自らの内的な状態のレベルの高低により能動と受動を説明する方向性は理解できよう。被造物は、神の視点から見ればどれもある意味で受動的なものであるにもかかわらず、しかし被造物は、それでもなお、それ自身が受動と能動をもちうる。自身が受動と能動を持ちうるという意味で、被造物は能動と受動の基体になりうるのである。
 被造物は、神の視点から見ればどれも受動的である。しかし、それでもなお、被造物は受動と能動の基体になりうる。この図式から、崇高論で展開されたカントの自己保存理論を考えてみよう。カントとスピノザの相違は、被造物には「外」があるかどうかであった。カントは、外なる自然に働きかけられるとき、受動的であり、働きかけるときには能動的であると考えていた。しかしスピノザはそうではない。この意味でカントとスピノザの自己保存の意味は明らかに異なる。しかしカントの図式にはある前提があったことを思い出したい。それは、外なる自然は、物理的には圧倒的な脅威として、あらゆるものに物理的に働きかけているという前提である。この観点からすれば、被造物はすべて受動的である。しかしそれでもなお、被造物は独自の能動性を獲得することができるとカントは考えていた。すなわち理性的な働きである限りで、被造物は、自らの理性的なあり方を保持したまま、外なる自然を超克しうる。理性は、こうした物理的な自己保存とは別種の自己保存を外なる自然に対し持ちうるというのが、崇高論の趣旨であった。こうしたカントの図式および前提を、あらためてスピノザと比較すると、次のような共通性が見えてこないだろうか。カントにおいては、外なる自然を物理的な働きとみなす限りは、被造物はすべて受動的であるとしていた。しかし、それでもなお、被造物は独自の能動性を獲得することができるとカントは考える。したがって、被造物は、受動と能動の基体になりうるのである。このように本来的には受動的でしかないように見える被造物にも、受動と能動の区別を認めようとし、かつ、優れた意味での能動性を理性に認めようとする点ではカントの問題意識は、スピノザの問題意識と共通しているといえる。

能動-受動の関係という観点からカントとスピノザを改めてみてみると、両者の間には比較のポイントが十分あることに気づかされる。すでに見たように能動と受動の関係はカントとスピノザで考え方は異なる。これはカントとスピノザとで自己保存の概念が異なっているからであることはすでに見たとおりである。しかしカントとスピノザの差異は、まったく無関係であるという意味での差異ではない。受動的な被造物であっても、能動と受動の区別がなされうるのはどうしたらよいか、という問題意識の共通性を軸にしてはじめて出てくる差異である。このように問題意識の共通性を前提にした比較こそ意義のある比較といえよう。比較の中心軸となる、カントとスピノザ双方の問題意識は、吉田氏の指摘どおり、自己保存概念に関するスピノザ、カント間の決定的差異―すなわちスピノザにおいて非理性の自己保存力と理性の自己保存力は連続性があるのに対し、カントにおいてはこの両者は断続的である―をさらに突き詰めて考えるとき、はじめて浮かび上がってくるのである。
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