セミナーのお知らせ

ライプニッツ研究会セミナーポスターデカルトmini.bmp
第4回ライプニッツ・セミナー 村上勝三(東洋大学) 
「見失われた形而上学―エウスタキウスとクラウベルクの間のデカルト」講演会のお知らせ
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ライプニッツ・セミナーでは、哲学テキスト分析を中心に17世紀哲学における思想的鉱脈の確認および発見を目指しています。このたびセミナー初の試みとして村上勝三氏(東洋大学)による講演会を開催します。

日時 2010年7月10日(土曜日) 15時から
場所 慶應義塾大学(三田キャンパス)北館 大会議室

お問い合わせは、ライプニッツ研究会幹事 田子山和歌子 japan.leibniz.symposium@gmail.com まで

(要綱)
「見失われた形而上学―エウスタキウスとクラウベルクの間のデカルト」村上勝三

本発表は発見的論考というよりも、むしろ哲学史的整理を心掛けた論考である。目次を以下に掲げる。

T.17世紀の哲学と四つの先入見
U.スアレスと形而上学
V.17世紀の「形而上学」
W.17世紀「存在論」の流れ 
X.クリスチャン・ヴォルフの存在論
Y.デカルト哲学と形而上学

以上を通して、デカルトの形而上学的探究を、スアレス、エウスタキウスの形而上学と、クラウベルク、ヴォルフの存在論の間において何が見えてくるのか、ここに光を当てる。結論を記すならば以下の通りになる。デカルト哲学において「私」の思いが認識批判の最終的な制約となっているだけではなく、存在論への出発点にもなる。デカルト哲学はそのような形而上学を核心にもっている。言い換えれば、思いの第一性から存在論へと進む。ここにデカルト哲学の革新性がある。このことは「私」と「神」との二重中心性という解釈とは相容れない。非被造的、つまり、創造の標をもたない「私」から「神」を介して「私」の実在を被造性、つまり、有限性として意義づける。クラウベルク、ヴォルフの存在論では、形而上学が存在論に変質し、他方、マルブランシュ、ヒューム、カントの脱形而上学では存在論が位置をもたなくなる。デカルト哲学の核心をなす形而上学は思いから超越を経て存在論を開く。伝統的な形而上学を「私」に据え直すために、被造的ではない、しかし経験的世界に実在する「私」を確実性の拠点とする迂回を通して、そこからの超越によって客観的妥当性を基礎づけ、かくして存在論が切り拓かれる。デカルトの哲学はそのような形而上学を核心に抱く。このことはまた「私」の第一性という視点と、その「私」もさまざまな存在のうちの一つであるという視点との統合であることも示している。一言に纏めれば、「私」の思いを超えて存在論が開かれる。ここにデカルト形而上学の革新性がある。
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