セミナー資料

ライプニッツ研究会セミナー講演会資料NEW
2010年7月10日(土曜日)に予定されているライプニッツ研究会セミナー講演会「見失われた形而上学―エウスタキウスとクラウベルグの間のデカルト」の資料(村上勝三氏による)を掲載します。講演会当日の資料となります。
「見失われた形而上学」レジュメ(村上)

T.17世紀の哲学を考えるために
17世紀の哲学を理解しようとする場合に、留意しなければ間違えてしまう基本的な事項として、次の四点を、まず、指摘しておきたい。第一に「がある」と「である」の区別、第二に「である」と「べきである」の乖離、第三には「理由」と「原因」の分離、第四に「智恵の探究」について、この4点である。その後に、スアレスとエウスタキウスの形而上学についての考え方を提起し、さらにクラウベルクとヴォルフの存在論についての考え方を探る。最後に、この形而上学とこの存在論に挟まれているデカルト哲学の、その挟まれているという点から見出される特質について述べる。

U.スアレスと形而上学
スアレスによって捉えられた「形而上学」によって示されていることを『形而上学討究』(Disputationes metaphysicæ)の「第1討究」を拠り所にして次のように纏めることができる。形而上学は、第一に、智恵の探究に源をもつとされていること、第二に、自然神学、つまり自然の光による神学とされていること、第三に、物質的なものから質料を捨象(抽象)して得られるものを観想する学とされていることである。形而上学には@神的なもの、A質料を引き離されたもの、B質料なしに実在しうる存在の共通の理拠が含まれている。それらは「抽象的なものres abstracta」と呼ばれる。この点では、形而上学は抽象的なものを扱う学である。その対象について述べられていることを次の三点に纏めることができる。第一に、それは無限実体である神についての事柄の知を含み、有限実体についての知も含む。第二に、実象的なものである限りの知性的なものも含む。第三に、神的な事柄も知性的なものも「実象的存在ens reale」として「存在」と括られる。実象的存在に対立するものとして形而上学の対象から外される「理拠的存在ens rationis」とは、事物に基礎をもたない純粋に知性によって産出されるものである。理拠的存在はスアレス形而上学の対象から外される。にもかかわらず『形而上学討究』の最後の「討究」である「第54討究」においてスアレスは理拠的存在について詳細に論じる。このことは何を示しているのであろうか。その理拠的存在は真なる存在ではなく、「いわば存在の影のようquasi umbræ entium」であるとされる。それらが知解可能になるのは、「真なる存在との、或る何らかの類比と推測による」。しかし、この理拠的存在について探究することは形而上学を補完するために必要である。たとえば、物理学者が「質料と形相をともに結びつけて欠如を論じたり、場所との類推で空虚を論じたりする場合に」、何らかの実象的存在と結びつけて論じる。このような「人間の理性的な操作を」一つの技術として明らかにすることが求められるからである。それゆえ理拠的存在をそれとして研究すること、つまり「理拠的存在の共通理由、特性、区分」についての研究が形而上学に属することになる。しかし、それは形而上学の最後に付け加えられた主題である。スアレスが『形而上学討究』のなかで成し遂げようとした課題には、実体と偶性、それ自体による存在と他による存在、質料的存在と非質料的存在というアリストテレス・トマス的な対立概念による存在の分類ではなく、実象的存在と理拠的存在という存在の分類を打ち立てるということがあったと考えられる。

V.17世紀の「形而上学」(エウスタキウス)
エウスタキウスの『哲学大全』(Summa Philosophiæ quadripartita, de rebus Dialecticis, Moralibus, Physicis et Metaphsicis, Paris 1609)において、形而上学の対象は実象的存在であるが、それが理拠的存在によって補完されることを通して、この二つの種類の存在も、共通に存在として形而上学の対象とされる。スアレスの開いた地平をエウスタキウスがさらに一歩先に進めたと言ってよい。この先にデカルトの形而上学を眺望するとき、次の点であたかも地続きであるかに見える。それは、知性の内と外とを対比的に論じながら、その両方を理由・原因の探求可能な存在として認めるという点においてである。

W.17世紀「存在論」の流れ(クラウベルク
クラウベルクの1647年の『哲学綱要』(Elementa Philosophiæ sive Ontosophia)において、哲学が向かうのは「対象化された事物の知性における生き生きとした表象rerum objectarum vivæ in intellectu repræsentationes」である(Ele.Philo., Prolego., § 1, p. 1)。その表象とは「知解可能なものintelligibile」とされる。この「知解可能なもの」についての規定はそのままで、(1660年の版、それの)最後の1664年の版では次のように言われる。「存在は、何であれどんな仕方であれ、思われまた言われうるEns est quicquid quovis modo est, cogitari ac dici potest」と(『存在についての形而上学、もっと正しくはオントソフィア』(Metaphysica de ente, quæ rectius Ontosophia, II, § 6, t.I, p. 283)。彼によって存在は知解可能性において捉えられる。その一方で次のことを見逃すわけにはいかない。彼の「存在論」は矛盾律をかかげ、それを基盤にして「存在の本質Entis Essentia」、「存在の実在Entis Existentia」、いくつかの超越概念、「原理、原因、作用」などの存在論の基本的な概念、考え方を説明する。そこで、われわれが着目すべきは、デカルト的な「私があるEgo sum」ことの第一性と矛盾律の第一性とがどのような関係として論じられるのかということである。しかし、この両者の関係は並列にとどまる(cf. Ontosophia, III, § 26, n. p, t.I, p. 286)。彼はたとえばデカルト『省察』の註解(Paraphrasis, 1658)を著し、また『デカルト哲学擁護』(Defensio cartesiana, 1652)という書物をも公刊している。その彼によって改変された形而上学としての存在論において思いとしての「私」の第一性は失われている。そのことは一六四七年においてよりも、一六六四年においていっそう明らかに看て取れる。というのも、一六四七年には存在は知解可能性という表象の場に設定されながら、一六六四年には知解可能なものは存在のなかに埋もれることになるからである。

X.クリスチャン・ヴォルフの存在論
クラウベルクからヴォルフへの存在論に関する流れを次のように纏めることができる。第一に、クラウベルクの一六四七年の書物では核心をなしていた「知解可能なもの」が、彼の一六六〇年の書物では重みが減少していた。さらに、その先にヴォルフの「存在」についての捉え方を見晴らすことができる。第二に、「私が思う(コギト)」ということについても同じことが言える。ヴォルフは矛盾律と「十分な理由の原理」から出発し、そこに「私」の第一性は見られない。デカルト的「私ego」は彼の存在論のうちに位置をもたない。第三に、実象的存在と理拠的存在の区別は「現実的存在」と「潜在的存在」の区別へと引き渡され、知性と事物の対峙関係の下にも、知性の内と外という対立関係の下にもおかれない。

Y.デカルト哲学と形而上学
デカルトの形而上学的探究を、スアレス、エウスタキウスの形而上学と、クラウベルク、ヴォルフの存在論の間においてみるならば、見えてくるのは「私」の思いが認識批判の最終的な制約となっているだけではなく、存在論への出発点にもなっているということである。デカルト哲学はそのような形而上学を核心にもっている。言い換えれば、思いの第一性から存在論へと進む。ここにデカルト哲学の革新性がある。このことは「私」と「神」との二重中心性という解釈とは相容れない。非被造的「私」から「神」を介して「私」の実在を被造性、つまり、有限性として意義づける。クラウベルク、ヴォルフの存在論では、形而上学が存在論に変質し、他方では、マルブランシュ、ヒューム、カントの脱形而上学では、形而上学が「あること(あるもの)の限りでのあること(あるもの)」の探究という意味を失っており、存在論が位置をもたなくなる。デカルト哲学の核心をなす形而上学は思いから超越を経て存在論を開く。伝統的な形而上学を「私」に据え直すために、被造性に依拠しない、しかし経験的世界に実在する「私」を確実性の拠点とする迂回を通して、そこからの超越によって客観的妥当性を基礎づけ、かくして存在論が切り拓かれる。デカルトの哲学はそのような形而上学を核心に抱く。このことはまた「私」の第一性という視点と、その「私」もさまざまな存在のうちの一つであるという視点との統合であることも示している。一言に纏めれば、「私」の思いを超えて存在論が開かれる。ここにデカルト形而上学の革新性がある。


基礎的文献T
homas Aquinas, Expositio Posteriorum Analyticorum, lib.1, l. 41, n. 7
Thomas Aquinas, Expositio super Isaiam ad litteram, cap.3, l. 1
Francisco Suárez, Disputationes metaphysicæ, Salamanca 1597 / Paris 1866 / Olms 1965.
Eustachius a Sancto Paulo, Summa Philosophiæ quadripartita, de rebus Dialecticis, Moralibus, Physicis et Metaphsicis, Paris 1609.
Scipion Dupleix, La métaphysique ou science surnaturelle, Paris 1610 / Rouen 1640 / Fayard 1992, texte revu par Roger Ariew.
Scipion Dupleix, La logique ou art de discourir et raisonner, 1607 / 1984, Fayard
Rudolph Goclenius, Lexicon philosophicum, Francfort, 1613/ Marburg 1615 / Olms 1980.
Rudolph Goclenius, Conciliator Philosophicus, 1609 / Olms 1977.
Johannes Clauberg, Elementa Philosophiæ sive Ontosophia, Groningen, 1647.
Johannes Clauberg, Metaphysica de ente, quæ rectius Ontosophia, dans Opera Omnia Philosophica, Amsterdam 1691 / Olms 1968.
Chirstian Wolff, Philosophia Prima sive Ontologia, in Gesammelte Werke, 1728 / 1736, dans H. Abt. Lateinische Schriften t. 3, Herausgegeben von Jean Ecole, Olms, 1962.
Descartes, Œuvres de Descartes, publiées par Charles Adam & Paul Tannery, Nouvelle présentation, Vrin 1964-1973.
Les textes des << Meditationes >>, Édition et annotation par Tokoro, Takefumi, Chuo University Press, 1994.
René Descartes, Tutte le lettere 1619-1650, a cura di Giulia Belgioioso, Bompiani, 2005.
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